認知症と運転免許の問題
親の運転を見守る家族として、「もう運転は危険かもしれない」と感じる瞬間は誰もが直面する難しい問題です。特に認知症の症状が見られ始めると、この問題はより切実になります。運転は単なる移動手段ではなく、多くの高齢者にとって自立のシンボルであり、生きがいでもあるのです。
認知症と運転能力の関係
認知症は判断力や空間認識能力、反射神経などの運転に必要な能力に大きく影響します。国立長寿医療研究センターの調査によれば、軽度認知障害(MCI)の段階でも、健常者と比較して事故リスクが約1.7倍に上昇するとされています。

特に注意すべき運転行動の変化には以下のようなものがあります:
– 信号の見落としや一時停止の無視
– 車線のはみ出しや蛇行運転
– ブレーキとアクセルの踏み間違い
– 駐車の際の接触事故の増加
– 道に迷うことが増えた
法的な制度と判断基準
2017年3月の改正道路交通法施行により、75歳以上のドライバーは認知機能検査が義務付けられ、「認知症のおそれ」と判定された場合は医師の診断が必要となりました。2022年の警察庁データによれば、この制度により約3.3万人が運転免許の取り消しや停止処分を受けています。
認知症の診断基準としては、以下の点が重視されます:
1. 記憶障害(特に最近の出来事の記憶)
2. 見当識障害(時間・場所・人物の認識)
3. 遂行機能障害(計画立案や判断の困難)
4. 注意力の低下
家族ができる観察と対応

親の運転を心配する場合、まずは客観的な観察が重要です。同乗して運転の様子を確認したり、車の傷の増加や駐車の乱れなどをチェックしましょう。
早い段階での対話が重要で、「運転をやめさせる」という姿勢ではなく、安全と代替手段について一緒に考えるアプローチが効果的です。地域によっては高齢者向けのタクシー割引や、デマンドバスなどの代替交通手段も増えています。運転免許の自主返納制度を利用すると、公共交通機関の割引など各種特典が受けられる自治体も多いことを伝えるのも一つの方法です。
認知症による運転リスクと家族が直面する現実
認知症ドライバーが引き起こす事故の実態
認知症高齢者による交通事故のニュースは、残念ながら珍しくありません。警察庁の統計によれば、75歳以上の高齢ドライバーによる死亡事故件数は、運転者の人口当たりで見ると他の年齢層より高い傾向にあります。特に認知機能が低下している場合、その危険性は一層高まります。
実際に起きた事例では、「アクセルとブレーキの踏み間違い」「一時停止の見落とし」「逆走」などが特徴的です。東京都内では2018年に80代の認知症の疑いがあるドライバーが、信号を無視して歩行者5人を死傷させる事故が発生しました。この事故の加害者は事故直後に「どうして自分がここにいるのかわからない」と話したと報じられています。
家族が直面する葛藤と対応の難しさ
「父は60年間無事故で、車は彼の誇りです。免許を返納させるなんて、私にはできません」
これは、認知症初期の父親を持つ50代女性の言葉です。多くの家族は同様の葛藤を抱えています。特に地方在住の高齢者にとって、運転免許の返納は「移動の自由」「自立」「尊厳」の喪失を意味することがあります。
家族が直面する現実的な課題:

– 本人が認知症の自覚がなく、返納に強く抵抗する
– 「まだ大丈夫」という本人の主張と、客観的な判断基準のギャップ
– 返納後の代替手段が限られている地域での生活維持の問題
– 家族が「取り上げる側」になることへの心理的負担
日本老年医学会の調査では、認知症と診断された人の約4割が診断後も運転を続けているという報告があります。多くの場合、家族は「事故が起きるまで待つしかない」という消極的な対応を取らざるを得ない状況に追い込まれています。
運転をめぐる家族間の対立が、介護関係の悪化を招くケースも少なくありません。「判断基準」と「代替手段」の両面から、この問題に取り組む必要があるのです。
運転免許返納の判断基準と認知機能検査の仕組み
運転免許の返納を考えるタイミング
運転免許の返納は、認知機能の低下が明らかになった時点で検討するべき重要な決断です。2017年の道路交通法改正により、75歳以上のドライバーは免許更新時に「認知機能検査」を受けることが義務付けられました。この検査では、時間の見当識、手がかり再生、時計描画の3つの課題を通じて認知機能を評価します。
検査結果は「認知症のおそれあり」「認知機能低下のおそれあり」「問題なし」の3段階で判定され、「認知症のおそれあり」と判定された場合は、専門医の診断が必要となります。認知症と診断されると免許の停止または取消処分となります。
家族が気づくべき運転の危険信号
専門家によると、以下のような運転行動は認知機能低下の兆候として注意が必要です:
– アクセルとブレーキの踏み間違いが増えた
– 一時停止の見落としや信号無視が目立つようになった
– 車庫入れや縦列駐車が著しく下手になった
– 同じルートでも道に迷うことがある
– 車の傷や当て痕が増えている
警察庁の統計によれば、75歳以上のドライバーによる死亡事故の発生率は、免許人口10万人あたりで他の年齢層の約2倍にのぼります。特に認知症の初期症状が現れ始めると、判断力や空間認識能力の低下により事故リスクが高まります。
公正な判断のための第三者評価

返納の判断に迷う場合は、自治体や医療機関が実施する「運転能力評価」の活用も一つの選択肢です。これは実車やシミュレーターを用いた客観的な評価で、本人も納得しやすい判断材料となります。地域によっては「運転寿命診断」などの名称で無料または低額で受けられるサービスもあります。
免許返納の判断は家族だけで行うのではなく、かかりつけ医や地域包括支援センターの専門家、ケアマネジャーなどと相談しながら進めることが、本人の尊厳を守りつつ安全を確保する最善の方法です。
家族との対話:運転免許返納をめぐる難しい会話の進め方
家族との対話は、認知症の親の運転免許返納について最も難しい局面です。多くの高齢者にとって運転免許は単なる移動手段ではなく、自立のシンボルであり、長年の誇りでもあります。そのため、返納の話し合いは慎重に進める必要があります。
返納の話し合いを始めるタイミング
運転に関する問題行動(道路標識の見落とし、急ブレーキの増加、接触事故など)が見られ始めたら、早めに対話を始めることが重要です。日本認知症学会の調査によると、認知機能低下に気づいてから実際に運転をやめるまで平均1.7年かかるとされています。危険な状況になる前に、時間をかけて話し合うことが安全につながります。
効果的な対話の進め方
– 一方的な命令ではなく、共感から始める:「運転できなくなったら大変だよね」と相手の気持ちを理解する姿勢を示します
– 第三者の意見を活用する:かかりつけ医や専門医の見解を伝えると受け入れられやすくなります
– 具体的な代替案を示す:「免許返納者サポート制度」や地域の移動支援サービスなど、生活の質を維持できる選択肢を提示します
– 段階的なアプローチ:いきなり全面返納ではなく、「夜間は運転しない」「近所だけにする」など段階的な制限から始めることも有効です
対話の失敗例と成功例
ある70代男性の事例では、子どもからの「もう運転はやめて」という一方的な要求に強く反発し、関係が悪化しました。一方、別の家族では「お父さんの運転技術は素晴らしいけれど、万が一のことがあったら後悔する」と伝え、医師の診断結果も踏まえながら時間をかけて話し合った結果、自主返納に至りました。
対話の際は感情的にならず、相手の尊厳を尊重する姿勢が何より重要です。運転に代わる楽しみや生きがいを一緒に見つけることで、新しい生活スタイルへの移行をサポートしましょう。
免許返納後の生活を支える移動手段と代替サービス
免許返納後の生活を支える移動手段

運転免許を返納した後も、高齢者の移動の自由を確保することは生活の質を維持するために不可欠です。全国の自治体では、免許返納者向けの支援制度が年々充実してきています。2022年の調査によると、返納者への支援制度を設けている自治体は全国の約80%に達しています。
地域公共交通の活用と支援制度
多くの自治体では、免許返納者に対して以下のような支援を実施しています:
– タクシー券の配布:年間一定額分のタクシーチケットを提供(例:年間2万円分)
– コミュニティバスの無料パス:市町村運営のバスが無料または割引で利用可能
– ICカード乗車券への支援:SuicaやPASMOなどの交通系ICカードにチャージ金額を補助
特に注目すべきは、過疎地域での「デマンド型交通サービス」の広がりです。これは予約制で自宅から目的地まで送迎するサービスで、バスやタクシーの中間的な位置づけとなります。国土交通省の統計では、2021年時点で全国約700の市町村で導入されています。
家族で取り組む移動支援の工夫
家族による支援も重要な選択肢です:
– 週末の買い物や通院を家族の運転で一括して行う「まとめ行動」の計画
– 親族間での送迎当番制の導入
– オンラインショッピングや宅配サービスの活用方法を教える
ある80代の認知症の父を持つ娘さんは、「最初は父が免許を手放すことに強く抵抗しましたが、地域のタクシー会社と顔なじみになり、定期的に利用することで新たな社会的つながりができました。むしろ以前より会話が増えたようです」と語っています。
免許返納は終わりではなく、新しい生活様式への移行の始まりです。移動手段の確保と同時に、高齢者の社会参加を促す地域のサロン活動や趣味のグループへの参加も検討すると良いでしょう。移動の問題を家族全体の課題として捉え、本人の自立と尊厳を守りながら、安全で豊かな生活を支援していくことが大切です。
コメント